映画・テレビ

2019/01/30

追悼



ついこのあいだ年が明けたと思ったら、あっというまに1月が終わろうとしている。思えば世間も次から次とずいぶん慌ただしかったからそのせいもあるかもしれない。


まず箱根駅伝とラグビーで始まったスポーツ。まもなくJOCの五輪誘致問題、吉田沙保里や稀勢の里の引退と寂しいニュースが続き、と思えば玉鷲の初優勝、そして大坂なおみ全豪優勝と最後は明るい話題。


あと経済では三が日が明けて早々に世界同時株安に揺れた。外交でも米中ファウェイ、日韓レーダー、日露北方領土、日仏ゴーン、あちこちで覇権をめぐるゴタゴタが続いてやけに騒々しかった。そして政治でも厚労省統計問題。なんだか暗い話題ばかりだ。


大事な人の訃報も相次いだ。兼高かおる、梅原猛、市原悦子、……そして遂にこの人も。中学に入った頃にラジオで初めて耳にしてコードの不思議を教えてくれた人だ。


…………………………


前にも書いたことがあるが幼稚園の頃からなぜかフランスには縁があった。幕末の箱館戦争から開国の流れのなかで道南がそういう場所だったこともあるが、それだけでなく美術や音楽などを通じてこの国ではまだアメリカに負けず劣らず今よりはもっとフランスは近い国だった。


当時、1960年代は映画がフランスでも日本でも全盛期、ヌーベルバーグが吹き荒れて熱かった。この人はそんな若き監督たちとコラボして数々の名曲を生み出していく。繊細で真っ直ぐでもあり茶目っ気もありのそんなhumanなところが音楽に現れていて、そのあたりがやっぱり音楽好きでウイットに溢れていた幼稚園のフランス人神父さんとそっくりだったからすぐ惹かれてしまった。


「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」「思い出の夏」……誰もが耳にしたことのある曲ばかりだが、そのなかでこの曲はほかと違って映画のほうはなぜか日本では公開されなかった。それでも、ジャズでもたくさんの人がとりあげ名演を遺したことで世界に広く知られるようになった。メロディも歌詞も何度聴いてもやっぱり沁みる。歳を重ねるようになってからは尚更か。
エバンス、アート・ファーマー、……インストも多いがここはやはりボーカルということで、数あるなかから本人が編曲指揮しているものを選んでみた。ミシェル・ルグラン、1932年生まれだから母と同い年になる。熱かった時代がまた遠くなる。合掌。


「What Are You Doing The Rest of Your Life?」

◾️Sarah Vaughan
https://youtu.be/hoEfbrlraks


と思ったら、ギター1本バックに訥々と
歌うこの人もやっぱり味がある。

◾️Carmen McRae
https://youtu.be/SjeqHJGyx88


と思ったら、なんと当の本人のものも。
ピアノもうまいが歌もうまかった!

◾️Michel Legrand
https://youtu.be/qsH7SLpzzLg


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2019/01/27

迎合 (3)


(前回からつづく)


なんてことを考えていたら、この人がもうずいぶん前から同じことを予言していた。これを見つけたときは、そうか自分だけでなかったかとなんだか心強く嬉しくもなったのだが、いやいや、せっかくのこの忠告を生かせないままにその通りここまで来てしまったのだから、これはやっぱり深刻なことなのだろうと我に返った。



「テレビの音の扱いの無神経さは酷過ぎるように思う。ニュース報道の背後にまで全く関連性のない音楽や音響が流されて、徒らに視聴者の気分を煽ろうとする。私達もいつかすっかりそれに馴らされてしまっている。こんな状態が長く続くようなら、私たち日本人の耳の感受性は衰えてゆくだろう」(武満徹)


ニュース、CM、ドラマ、……まるで義務感のように音があてがわれる。余計なリズム、音量、感傷、……せっかくの映像の力を信用せず邪魔する。そして人の声まで邪魔する。休符はほとんどなし。なぜか音の洪水で埋め尽くす。センスの良し悪しを越えてもうこうなれば騒音としか言いようがない。どんな人が担当してるのだろう。もしや主張が過ぎる自己中心だけの人なのか。どんな職業意識を持っているのだろう。もしや縦割りセクショナリズムをどうしようもできないチームなのか。内部での話し合いはないのか。誰か全体をまとめあげる人はいないのか。……次から次と?が止まらない。



そして今やこれはテレビだけでもなく……

「濃い内容を秘めた豊かな映像に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。(…)むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている」(武満徹)


大衆化のなかでどうしたって凡庸で受け身にならざるを得ないお茶の間の「テレビ」、それだけならまだしも、確かにそれがもう今では、少なくともまだアグレッシブ主体的で最後の良心であってくれたはずの「映画」にまであっという間に伝染しているし、ひいてはごたまぜにすることで「音楽」までが冒涜されるようになっているのだから、そうするとこの予言は完全にこの今の惨状を言い当てていたことになる。


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…………………………


「映像」にしても「音楽」にしても、どちらもまずは自律的にそれぞれが質を高める、そしてそのうえでコラボする、押したり引いたり刺激し合いながら総合調整することでプラスアルファを引き出してさらに良いものにしていく、そんな道筋を辿るのが本来のあるべき姿だったはずなのだろうが、現状は哀しいかなむしろそのまったく逆で、それぞれがそうした陰での努力を怠ってその力不足をお互いに誤魔化して補い合う、つまりは甘やかして馴れ合う関係になってしまったようなのだ。いきおい、そうなれば当然それぞれのレベルは落ちていく。


そういえばこの手のことは、男女の仲でも集団の中の人間関係でも似たようなことはなくもない。というか残念ながらどんどん多くなっているかもしれない。さらに言えば、個人と個人とが切磋琢磨しながら横に連携してコラボし合う、それを積み重ねることで社会をより良きものにしていく、確かそれを民主主義と呼んで上からの専制主義の代わりにやっと手に入れたやり方だったはずだが、気づいてみればこれも個人それぞれに求められていたはずの事前の努力はすっかり忘れてしまって、お互いに依存し合い責任をなすりつけ合うことでかえってどんどん易きに流れるようになっている。すると、奇しくも政治にしても文化にしても同じ、流れがまったく符合しているのが分かってきて、何かそこに得体の知れない大きく横たわっているものがあるような気がしてくる。


…………………………


こうしてさまざま「関係」のもたれ合いをあらためて眺めてみると、それもこれも世の中のせいというよりは個人の姿勢ひとつにかかっているのが分かってくる。世の中があちこちで行き詰まっているのもどうやらそこに答えが隠れていそうな気がしてくる。となれば、家庭なら離婚、会社なら辞表、最後はそうなってもいいくらいのつもりになって今一度それぞれが関係というものを見つめ直してみる、足元からやり直してみる、とうにそこまで来ているのかもしれない。


すると、この音楽と映像の関係もまったく同じことで、もし音楽がその主権を今一度回復しようとするのであれば、こうした一見大衆に迎合するように見せかけながら実は上から目線でその大衆を見下すことだけで成り上がってきたテレビ映像、それとのつきあい方については、その悪いところを真似するのは勿論、物欲しそうにその後ろをくっついて従属してみたり、ダメなところを黙って補ってあげようなどと主客転倒の余計な時間を浪費したりするような態度はもう一切やめにして、それで世離れすることになるならなっても構わないぞくらいの覚悟を決めてかかるしか、どうやらもう残された方法はなさそうな気がしてしまうのだがどうだろう。


こんなことを書いたりすると「なんだ偉そうに、エリートぶりやがって」などと、まさにみんなで引きずりおろして楽しむポピュリズム側からの標的にされてしまいそうだ(笑)。「いやいや、ちょい待った!そんなはずあるわけなくてね、流行りの見た目の分かりやすさに走らないだけのことでね、つまり敵は別のところにいるのでね、そこを見誤ると分断しようとする彼らの思うツボなんですがね」と答えるしかないのだが、はて、そこの微妙なところ、「分かりにくく」見えたとしてもちょっとだけ立ち止まって「考えて」さえもらえればいいだけなのだが、それこそそう簡単に決めつけず分かってもらえるか……→(1)(2)


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2019/01/26

迎合 (2)


(前回からつづく)


そうした表現活動への向き合いかた、振り返ってみるとこの30年で信じられないスピードで技術が革新されてきているから、もしかしたらそんなことも関係しているのかもしれないと思ったりもする。デジタルさえ使えば絵だろうが文だろうが音楽だろうが、それまでは必須だったフィジカルな鍛練修行などはすっ飛ばして、コピペと少々の修整ボタンさえ押せば誰にでもすぐそれなりに出来あがってしまうからだ。そんなこともあって担い手の裾野が驚くほど広がってきた。機材さえあれば全国どこの誰でも世に発信できるようになった。アマとプロの境界ですら判然としなくなってきた。


とはいっても、実際はやはりそれだけの単純なことでもなさそうだ。技術が大衆万人の手に渡されたからといって、内容までがそれと一緒に自動的にレベルアップされるかといえば、決してそういうわけでもない。むしろ実際はその逆で、ずいぶんレベルの低いものまでが何のフィルターを通すこともなく巷に出まわって氾濫するようになっている。それを受け取る側も、辛口も厭わず適正に評するというよりは、煙たがられないようにいいねいいねと、いかにも善人風の拍手を送ってその気にさせる。


こうしてどんなに技術が進んだとしても、その前にこれらの技術を扱う人間のほうが日々の効率というか、手っ取り早さに追われてどんどん軽く薄くなってしまうのであれば、そんな粗製乱造のなかではやっぱりどうしたって斬新な良いものなど出てくるはずもない。いや、仮に出てきたとしてもそうでないものと一緒くたにされてしまえば、いつまでもその中に埋もれて決して浮かび上がってなど来れない。その傾向はすべてに言えるが、とりわけこのところの文字離れなんかもどうやらそんなことに関係しているらしい。


…………………………


ああだこうだと論理的な思考の詰めも求められるのが文字だから、今の時代にはこれを使うのが一番面倒くさがられる。確かにそんなじっくり整理しながら自分をまとめることに時間をかけるくらいなら、それよりは一気に感覚的に吐き出せる音、映像、……それも、そのなかでもさらにより手っ取り早く世間を驚かせられる簡単な方法がいいやとそっちに流れるようになって、そこから一気に文字が追いやられてバランスが崩れてきたようなのだ。


昔に比べればずいぶん本を読まなくなっているし、日記や手紙を書く習慣もほとんど見られなくなった。そして気づいてみれば、大の大人でも自分の感情を言葉や文字で相手にきっちり伝え切れないがために、あちこちで誤解の連鎖から軋轢と混乱が引き起こされるのに出くわすことしばしばだ。


言葉や文字を使いこなすことできっちり自分を表わすこと、それを相手に伝えて理解してもらうこと、これがあっという間にこうして下手になってしまったのも、やはり一呼吸おいてじっくり考えるというそれまでのせっかくの習慣をなぜかいつしかやめてしまったからだろう。人は言葉で考える。自分の頭のなかで言葉を積み重ねていくことでしか考えられないように出来ている。それが、感覚のほうが圧倒的に優先されるようになってからというもの考えなくなった。考えなくなったから言葉を使わなくなって下手になった。そう考えるとこれも当然の帰結なのだが、思えばこうした流れもすべてテレビから始まった。


…………………………


ということでテレビのポピュリズムは凄まじい。言葉にすべきところを何でもかんでも映像に肩代わりさせるわ、何の素養も基礎も持ち合わせない輩にドラマの主役を務めさせるわニュースのコメントをさせるわ、それを見てじゃあ自分もだと有名になりたい症候群の出たがりをわんさかそこに膝まづかせるわで、わずか半世紀そこそこで草創期の気概もどこへやら、どんどん易きに流れて今やレベルはどん底の行き着くところまで行ってしまった感がある。


この双方向時代にいまだに一方的で、その立場への怖れの自覚もそしてそれに見合ったヤル気もないのであれば、結局は視聴率を稼ぐために何憚ることなく耳目を惹くためサプライズさえやってればいいだろう式に成り下がるのは無理もないのかもしれない。それでいて、自分達は庶民の味方、一緒になって権力エリートに立ち向かっていこうと煽ることだけは忘れないエリート達なのだからこうなるともう呆れるしかない。ということでもうとっくに終末期を迎えているのに、そのことにも気づかずに相変わらず偉そうに漫然と垂れ流しを続けているのだから、いや仮に気づいていたとしても何らそれを正そうともしていないのだから、こうなるともう何も期待できない。


そしてこれが最悪なのは子供たちへの影響だ。そんな低劣なテレビが茶の間に垂れ流されてしまうことで、子供はそんな程度でいいのだなとそれを真似て育つし、大人までそうした子供に媚びるからますます日本人の理性も感性もレベルはどこまでも下降線を辿っていく。ということでこうなれば、他人はともかくも自分の感覚が鈍らされ磨り減らされるのだけはなんとか防衛せねばと、今ではもうほとんどテレビはつけないようにしている。


(つづく)


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2019/01/25

迎合 (1)



映像・音・笑い……このところどの分野をとっても、誰にでもすぐに分かるそんな類いのものがずいぶん増えてきて今ではすっかり天下をとるまでになったらしい。勿論、分かりやすさが必要な場合もある。小さな子供にも分からせなければならないものもある。しかし、その必要のないものまで何でもかんでもがそうなることでなんだかえらくつまらなくなっている。これも、もしかして大人の領域がどんどん狭まってきたことの現れなのか。


以前なら、そう簡単には誰にでも分かるものでもないそんなものも結構あった。少なくとも路地裏のサブカルチャー、メインが際立てば際立つほどに必ずそれへのアンチとしてあちこちに産声をあげては、一言物申すという形でバランスをとり健全な在野精神というものを示し続けてくれていた。分かる人が分かればいいということで「どうかな?」「そうそう、分かる分かる」……するとそこに共感というのか、言いようのない連帯の空気が生まれてそれが互いの喜びでもあったりした。


もしそうならなかったらお互いあっさり諦める。「縁がなかったんだから仕方ないよね」「どうやら合いそうもないのでまたほかを当たってみますわ」「どうぞどうぞ帰ってくれて全然構いませんよ」、ほかにも選択肢がたくさん用意されていたからだろうが、こんな感じで今のように簡単には媚び合ったりはしない。そうした骨太な矜恃というのか、世の中にはそんなお互い遠慮なしの奥深さみたいなものがまだあってくれたような気がする。


そしてそのためには、ただボーッとしてるだけではダメで、分かるようになるための前もっての修練というか積み重ねがそれぞれに求められていた。どちらの側にもそのバックボーンとして世間を広く見つめる眼だとか感性だとかがどうしても必要になるから、そこで競い合いながらもお互いを磨き合い高め合っていくといったそんな前向きないい関係が確かにあった。


…………………………


今は何に追われているのか知れないが、どうやらその辺がずいぶん甘くなってしまったらしい。どうしてだろうと考えてみるのだが、いきなり子供でも誰でもいいからともかく数の多さばかりを狙いにいくからなのか、それともぶつかり合ったらどうしようと転ばぬ先の杖でトラブルというものに極端に臆病になってしまったからなのか、とにかく目線を低く合わせさえすれば安全安心ということでだろう、どうやら関係がえらく迎合的になっているようなのだ。


そうすると、どうやら政治や経済だけでなく世の中あらゆる場面でポピュリズムに引っ張られるそんな時代になってしまったのかとそう考えざるを得なくなる。気骨が勝負だったはずのサブカルチャーの側ですら、早くメインに登り詰めるために嫌われないよう尖った爪は前もって切っておく、そんなのを見たりすると、誰もが無意識のうちに最初からそんな気分に支配されているとしか思えなくなってくる。


確かにジャズひとつとっても、以前なら地下アングラのライブハウス、暗いアジトのような煙モウモウの場に、いかにも不健康で危なっかしい変な若者たちが寄り集まっては、時代を斬るような突んざく音の渦に包まれながら連帯の関係を密かに確かめ合うというものだったが、今ではショッピングセンターでもファミリーレストランでも明るい照明に晒される場で、いつのまにか安全で「オシャレ」な大衆BGMにされるのが当然のようになっている。だいたい街からそうした路地裏すらがどんどん消えている。


(つづく)


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2018/08/30

感性



「待て~!」「ヒャ~!」


「ねぇ見て見て、鬼ごっこして遊んでるよ、おもしろいねえ」


「言うこときかない子供はああして捕まるの、ほら早くっ!」


「 ……………… 」


…………………………


せっかくの感性を塞ぐのだから、なんともやりきれない

これが続けばだんだん押し黙ってしまうのも無理ないか


いや、こんな時でもちびまるこならきっと黙っていない

「あれあれ、ほんとしょうもないねぇ~」ってところか


世間を見透かすクールな眼、そこに軽妙に毒を吐く知恵…

転ばされたってただでは起きないぞというところがいい


他の登場人物もみな個性全開でまるで実在してるようだ

欠点も隠さず生き生きとして、これも昭和だったからか


そんな些細でも大事なことを想い出させてくれるちびまるこ

そのさくらももこが若くして逝ってしまったらしい、合掌


感性



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2018/06/16

移民



……生まれ育つ環境を離れるということ

……新しい環境で身をやつすということ

……それでも元には戻れないということ

……気づけば大人になってるということ



監督のジョンクローリーはアイルランドの出身

そういえば確かに新大陸に渡る移民が多かった


…………………………


アイルランドの映画は何気に沁みるものが多い


「ザ・コミットメンツ」

「麦の穂を揺らす風」

「プルートで朝食を」

「ONCEダブリンの街角で」


どれも、派手ではなくても底にキラリ光るところがある

風土、歴史、気質、…どうしてそうなったかがおもしろい


…………………………


ちなみに、ヨーロッパでも北と南ではかなり空気が違う

縦断してみると、風景、言葉、人柄……違いが見えてくる


とエラそうに言っても、行ったのはたった一度きり(笑)

ただ、本でも絵でも映画でも音楽でも確かにそう感じる


どちらかいえば自分はその北のほうと相性がいいらしい

静謐、淡々、沈思、俯瞰、微妙、余韻、ニヤリ、ジンワリ…


なので、ラテン、よさこいソーランはからっきしダメ(笑)

そうした群れをなしての大振りなものは向かないようだ


はてなぜだろう、とも思うのだがこれがよく分からない

もしやシベリア~モンゴル、北まわりの渡来民だったか


◾映画「ブルックリン」
https://eiga.com/movie/83694/


移民



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2018/05/19

自由



周囲の流れに巻かれて囚われたりせずに自分を信じて真っすぐ打ち出す人、他人とは違うせっかくの個性を埋もらせたりせずにハチ切らせて翔んでる人、今ではあまり見なくなった。ただ、この人は珍しくもこちらをアッと言わせて一気に自由奔放な世界に連れていってくれる。放っておけばどんどん固まりがちな心を解き放してくれる。


ウマイとかヘタなんてことはまったく超越したところで、そして目の前の型の権威なんてものに萎縮しっ放しになるでもなく、ただその時々でやりたいことをやるだけ。そんな感じだから、なんだかそもそもがそうであった「表現の原点」のようなものをシンプルに示してくれているようで、その小気味よさ、爽快さには或る種の懐かしさまで感じさせてくれる。


◾「人生は夢だらけ」椎名林檎
https://youtu.be/GDnLHd2Ei3Y


…………………………


そして、見ているうちになんだかふとこれを思い出してしまった。なぜだろうと思ったが、そういえばどちらも速い4ビートに乗せて、身のこなしも映像も活き活きとキレがあって躍動している。ストーリーも確か親を振り切って田舎から出ていく話だった。1960年代だからもう半世紀以上も前の映画。若者たちの熱いエネルギーがほとばしっていた時代。


◾映画「ロシュフォールの恋人たち」キャラヴァン隊の到着
https://youtu.be/vB3mxTJdtY0

◾映画「ロシュフォールの恋人たち」 双生児姉妹の歌
https://youtu.be/TyKMhVdFvZI


…………………………


1960年代といえば、いま思えば家庭から植民地の果てまでまだまだずいぶん鬱屈とした時代だった。そして世界中のあちこちでそれをなんとか晴らせないものかというトライがあった。それだからか、このジャック・ドゥミ監督の映画にしても、そうした暗澹たる空気をはねのけようとする瑞々しさというか勢いが伝わってくる。


政治でもアートでも何でもそうだが、最初は新鮮で勢いがあったものもそれがだんだんメインストリームになって凝り固まっていくと、平家物語ではないが傲れるもの久しからずで、気づけば必ず守旧側にまわっている。そして今度はまたその守旧への反動として、それじゃつまらないよ、何かおもしろいことしてみようよという動きが必ず出てくる。


音楽の歴史ひとつをとってもそうだ。クラシックならロマン主義に対するラヴェルやストラビンスキー、ジャズならバップに対するマイルスやコルトレーン、いつも革新の芽が現れてはそれにとって代わろうとしてきた。


それに比べて今はどうだろう。総体としてはやはり大人しくなっていて、体制に対してホイホイ簡単に順応するか、抵抗があったとしてもせいぜい内向的で陰な愚痴程度の見せかけの反応ばかり。愚直にそれらを真っ向から跳ね返していくような、そこまでの勢いのあるアートはめっきり見当たらなくなった。そう考えると、そんななかでこの椎名林檎は独りプロテストということか。


…………………………


話はかわってこの2つのロケ地の舞台、半世紀前の「フランスロシュフォール」と今の「東京有明」、空間も時間もまったく違うこのかけ離れた2つ……何の関係もなさそうだがそう簡単に決めつけず、それこそ凝り固まらないで少しだけ頭を柔らかくしてimagine、その間の壁を一気に飛び越えてみる。


すると、何も飛行機代はなくたって(笑)ちょっとだけ鳥になって心を飛ばしてみるだけでもその間を行ったり来たりできるのだから面白い。そしてその何たるかについてこうしてたっぷり精神のアソびまでできちゃったりするのだからやめられない。そう考えると、これまたやっぱり「自由」というのはせっかくだから使わなければえらく勿体ないもの、放っておくと自らドブに捨ててしまってあれよあれよと奪われてしまうもの、そうした何にもましてかけがえのないものであることよ、なんてことを思ったりもする。


自由

自由



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2018/05/03

温故



ゴダール、ワイダ、メルヴィル

ほんとにこの映画館は意欲的だ


温故



風化させない心意気がうれしい


温故



ファンもたくさん集まってくる


温故



すっかり少なくなった名画座…

いいものは伝え残していきたい


◾池袋 新文芸座 4/27~5/6
「魅惑のシネマクラシックスvol.28」


温故



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2018/04/26

戦後



池袋新文芸座の日本映画特集、今度はその4回目「白黒映画の美学」、おもしろそうなのでまた行ってきた。


◾「煙突の見える場所」昭和30年


監督は五所平之助、知らなかったが素晴らしかった。調べてみると1902年(明治35年)生まれ、一貫して市井の人たちを描く庶民派監督だったそうだ。


場所は東京足立区、荒川沿いの北千住。いわゆる下町だ。路地、バラック長屋、開渠下水、堤防土手、リヤカー、オート三輪、工場煙突、商店街、……

昭和30年といえば、戦後の復興もまだ途についてまもない頃。自分の故郷でも、物心ついた時はまだこうした雑然とではあるがどこか手触り感のある風景があちこちに残っていた。今みると余計な贅がなくてすべてがシンプル、家にも街にも人間の素(す)がそのまま現れていた。


そして登場人物は、足袋商人、競輪場売り子、街頭放送ウグイス譲、税吏役人、祈祷師、ラジオ修理屋、立ち飲み女給、……みな混乱のなかでも糧を得ながらなんとか暮らしている。この時代はサラリーマンはまだほんの少数だった。そして、戦争の傷を負って心ここにあらず、何も手につかないルンペンも少なくなかった。


高度成長が始まる前だから富もまだまだ隅々までは行き渡らない。食糧にしても育児にしても決してそうそう思うようにはいかないことばかり。そうした状況のなかで市井の人たちがなんとか自分を懸命に生きる。


…………………………


置かれた状況はさまざまで、引きずってきたものが違うからそれぞれで世の中の見えかたがまったく違っている。だいたいが、まず誰にも他人にかまっていけるような余裕がない。自分がその日を生きることで精一杯だ。そして仮にかまってみたとしても、安直に自分の立場だけから他人を見てああだこうだ言ってみてもどうにもならない。


毎日誰もが目にする街のシンボル、工場の高い4本の煙突。そのカットが折々で挿入される。見る方角によって3本に見えたり、2本に見えたり、1本に見えたり……居場所を変えてみた時に、初めてそれに気づいて「へえ?」と驚く人たち。そのくらい一人一人が千差万別だった。


こうしてバラバラになってしまったアナーキーな民心をなんとか束ねて、世の中を一括りに統合していこうと戦後になって突如として語られ出した理念、正義。……ただ、うるわしい言葉を紋切り型で言うだけなら誰にでも簡単にできる。肝心なのは実際に動くかどうか。そこまで言うなら有言実行、とにかく動いてみなければ何も変わらない意味がない。問題は、いくらそれがわかっていてもみんな日々の生活に追われていたこと。しかもそれがてんでバラバラだったこと。


そんな混沌のなかで、一口に世の中を変えるといっても果たして一人一人が何からどうしていけばいいというのだろう。……そんななか目の前に或る1つの出来事が起こる。誰のせいにもできない誰にも依存できないそのたった1つの出来事。雲の上の政治がどうだこうだ言う前に、そこの足下で人のすべてが試される。果たして、まわりの人たちはどうそれに関わっていけるのだろう、少しは繋がりを持って意見をまとめ対処していけるのか。


…………………………


敗戦の贈り物として天から降ってきた戦後民主主義、それをこうした草の根のありようから、コミカルなオブラートに包みながらやんわりとだが現実感覚として突きつけてくる映画。今ではそんな映画などそうそう見当たらないから、やはりこれも時代というものなのかもしれない。ただ、それから60年以上が過ぎた今も状況は何も変わっていないようにも見えてしまう。


戦後まもないさまざまな暮らしのリアルがフィルムに刻み付けられているこの古い映画、今となれば懐かしいことこのうえない。そうした記憶を呼び起こしてみるだけでも今一度軌跡を辿ってみるカンフルになる。ただ、懐かしいだけならそれだけだ。一方で時代を越えて今にも通ずる何か、そこに幸いかなあらためて再発見の気づきが得られたりもしたのだからやっぱり観てよかったと思える映画だった。


貧しくも惻陰の情で甲斐甲斐しく奮闘する妻役の「田中絹代」が素晴らしい。そして、若さゆえ新しい感覚でクール気丈に振る舞う下宿人の「高峰秀子」、家長として威張ろうとはするものの優柔不断で結局何も決められない夫役の「上原謙」、懐かしくも滅私奉公で独り自腹を切ってでもなんとか動きまわろうとする公務員役の「芥川比呂志」、……みんな今はもういないがまだ若々しい。だからなのか、まずとにかく映画づくりへの気概がびんびん伝わってくる。そして、それでいてやっぱり巧かったことに舌を巻く。


◾映画「煙突の見える場所」1953
https://movie.walkerplus.com/mv23470/


戦後

戦後



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2018/03/25

軌跡



池袋にある新文芸座は、これまで経験したなかでもとびきり意欲的な映画館で、和から洋まで幅広くさまざまな企画を次々と打ち出してくる。なかでも、ひとりの俳優に焦点を当てて邦画の連続上映を演ってくれるのがいい。前に山田五十鈴のときも観に来たが、今は香川京子をやっている。


2週にわたって25本、どれもそうそうたる監督、俳優陣で多彩なラインナップが並ぶから、どれも観たくなって迷ってしまったが、結局、この日の黒澤明監督の2本になった。


軌跡


…………………………


どちらも東宝映画で主役は三船敏郎だ。ひとつはオンボロ長屋住まいに共同生活するボロを着たしょうもない貧乏盗っ人、もうひとつは、ハリウッド俳優顔負けキリッとスーツにメガネのクールな公団副総裁秘書。このまったくの別人格をここまでやれるのかというくらいに演じていて圧倒されてしまった。


共演者もみな実力派ぞろいだが、なかでも「どん底」の左卜全、山田五十鈴、「悪いやつほどよく眠る」の西村晃が素晴らしかった。いまこんな演技のできる俳優はどこをみても見当たらない。生きざまが現れているのか。


この頃の俳優さんは今ではもうほとんどが他界している。香川京子は現在86歳だが当時はまだ20代の前半、いわば日本映画の黄金期を知る数少ない生き証人だ。この日の映画でも、まだまだデビューしたてで初々しいのに、先輩たちに負けじと気迫あふれる演技をみせていた。


…………………………


客席は70代80代が中心で、なんと朝の初回から満席の立ち見!どこから集まってくるのかそのエネルギーには脱帽してしまう。自分のすぐ横にも通路の階段に座り込んだ爺さんがいて、「代わりましょうか」と言ったら「大丈夫、それには及ばん」という感じで丁重に断ってきた。


この映画が撮られた1950~60年代といえば、政治でも経済でも、そして文学でも音楽でもこの国には勢いがあった。一生懸命だった。まだ戦後の混沌にあって誰もが先を見ようとしていたからか。


客席の彼らはまだ10代20代だったはずだ。こうして軌跡を辿りにやって来たそんな人たちに囲まれてここに座っていると、そうした時代が確かにあったこと、不思議にもその気配のようなものに包まれた感じになってくる。そんな空気に、若造の自分だがなぜだろうなんだか嬉しくなってしまうのだった。そして、……う~ん、こりゃ負けてられないか……


軌跡



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